2024年9月3日火曜日

散文詩 I

ある街で。気難しい人の優しさが悪戯に走る道化師の痛みを突っ切った時、優しさは愛と、愛は精霊の慈悲の漂いとなり、風になる。風が割られたところで、壊れた風はガラスにはならず、雪になった。冷たすぎる心で想念を絶え間なく雲に、雪雲にしていたから。雪が誰も傷つけないことを祈るのは彼の勝手。


目の調子の悪くした風と、ビルの群れがハーモニカになった時の音の不可思議の境で、道化師はただひたすらに電話と電話のつなぎ目の綾取りを物憂いていた。だって、悲しいのは、世界みたいな窓と窓たちが、調子の悪いこと。壁が全て氷になっても、窓はトランプとして道化師を困らせる。イカサマ禁止!!


街と国境の交通を、気もそぞろな悲嘆な女の眺める木の壁で切断したとき、街々には彼の愛がシュレッターになって喧騒を引き裂いた。滞った男たちの酒宴も、廃れた商売の転がる瓶や箱も、凍ってしまうのを、笑う冷気を、避けたらいい。切れ切れになった街の営みは、空の人たちの三つ編みにして鳩と遊戯。


氷の壁に轟音あれ! パイプオルガンが、気まぐれな風にうつつを抜かした毒蛇が舌を切る瞬間に悲鳴を上げ、弦になって戦慄しても、靴とペダルしか見ない物憂げなギタリストのエフェクトで、メディアと通信とテクノロジーを伝えたら、妖精だって街を憂いて氷に寄りかかる。振動が命伝えたら太陽を見て。


タンポポが拷問で死んでいった人の心になったとき、種は針ではなく、生の底にあった酒とネクタルの甘い雫が死で氷になった冷たい優しさ。種が祈りさえ風に委ねて、家の壁、ファイヤーウォール、クローゼットを、愛で貫通したら、貴方は微笑んでいたんだろうか。弓が文明に隠れた邪悪であったとしても。


晴れた空にフレアの抵抗で穴が空いたとき、死んでいった人達が生きていた物語、動物と機械がじゃれるように揉めた苦刑の歴史たちが、矢になり、雨になり、大きなミシンの振動の風を呼び続けた。人の感傷は呆然としても、私はただ、悲しかった。でも、軽くだけ現れた縫い目の慈悲が、微笑んで夢に。


ビル群の部屋で、見えない有刺鉄線が絡まり、弦になって幽閉を呑気に歌っていたとき、窓からみえた看板が物憂げに罪業を連符にしていた。建物たちの瞬きの間に、月が悲しみに知らないふりをしていたとき、女神が人の群れから蒸留した雫を、命の不純さえ忘れて力を得た街の業火をさえ突っ切った一滴を、涙を、天気にも商売にも飽きた風に運ばせて、鍵を星の数ほど破って、彼の喉と手首に運んできた。

2024年8月31日土曜日

読書について 

読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。


 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。


日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。


人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。


それらは時には、普段は遭遇しない事柄であるためにすっと入ってこなかったり、アカデミックすぎて理解するのが難しかったりすることもあるが、人間の脳に備わっている言語機能の可能性は大きいため、既に知っている言葉や文法、それらが叙述可能な事象の配列から、いくらでも発展して、新しい事象や知識に対して誰でも解釈を行うことができ、そうすることで言語を通し、世界はいくらでも広がっていく。


生き物の図鑑を読めば、掲載されている写真に添えられた言葉での説明により、生物と自然の森羅万象の営みが読む人の心の前に現前し、ありとあらゆる生き物の生態を、家に居ながら知ることができる。生物学の本を読めば、生き物の外観だけでなく内部の構造や機能であったり、生き物の行動の意味や目的を知ることができ、生き物についてより多くのことを、言葉と少数の絵だけで知ることができる。


伝記やノンフィクションを読めば、普段の交流する人との会話だけでは出くわさないような、色々な出来事を追体験することができ、人間世界についての新しい事柄がたくさん自分に開かれていくことになる。小説や文学を読めば、実際にないこと、人間が体験しうる様々な出来事、人間が思い得る色々な心理を体験することができ、現実の実存からはみでた様々なヴィジョンや真理を手にすることができる。


評論文や批評文を読めば、社会上のあるいは学問や芸術の世界の色々な事柄に対して、学のある人が持った意見、それについての思考を、共有することができる上に、様々な意見や思考を取り入れることによって、本の外で現実的に体験する事柄についても、色々と思いめぐらせ深い洞察を持てるようになる。哲学書を読めば、時代と場所を超え、偉大な精神が人間や世界について見抜いた真理に触れることができ、読む人の精神は成長していく。


言語というのは、人間を特徴づける伝達方法であり、単なる視覚や聴覚の直接的な情報とは違って、五感によって感知できない遠くの事象を交通させることができる点で、人間を動物と大きく引き離しているものである。人間に生まれたからには、見たこともない生き物の羽の構造を知ることもできれば、3000年前の哲学者が抱いた思考を共有することもでき、宇宙の果ての星の営みを知ることもでき、フィクション上の冒険や景色を体験できるのである。体験しうるであろう社会上の事柄についても、全く知らない他人の経験を言語を通して追体験することで、社会生活上で自分の物として起こしうる行動や思考の可能性も増していき、行動の指針であったり出来事に対する解釈であったりが増大していくことから、実際に社会生活を行動面でも精神面でも豊かにしていくだろう。


映像や音声での情報とは違い、単語が文法によって羅列されている言語においては、無数の情報が抽象された形で一語に集約されているので、言語一語そのものが五感に関する脳の領域に与える一次的情報は少なくとも、それを解釈する思考というのはどこまでも広がり得り、解釈の結果として脳内を駆け巡る情報量というのは、映像や音声を上回ることが多い。本には夥しい量の言葉がコンパクトにぎっしりと詰まっていて、言語そのものは五感がそぎ落とされた抽象の結果の記号であるが、それをしっかりと解釈し、脳の中で具体化、イメージすることによって、一冊の本は一本の映画よりも遥かに多くの情報を人間に齎し得るものである。


映像での表現に触れることとの決定的な違いは、読書などで言葉の並び、文章を解釈する過程で、精神活動がより強度に発動することだろう。映像においては五感の情報がほとんどそのまま解釈されるだけであるが、文章を解釈するプロセスにおいて、言葉に意味を見出そうとするとき、人は意識的であれ無意識的にであれ、過去に体験した出来事、過去に思考した内容を想起し、それらを素材として言葉の並びに想像しながらあるいは考えながら解釈を下すということを行う。つまりその過程で、今までその人が体験した色々な出来事の意味するところが組み合わされたり、今まで思考してきて精神が諸々の事象に見出してきた意味が意識上に浮上して新たな解釈が構成されたりと、とにかく精神が機能することによって文章解釈において意味付けがなされる。五感が体験すること、見ている映像の内容に比べて、読書などで文章を読んでいるときというのは、そのように精神が機能している度合が大きい分だけ、それまでの思考や体験の軌跡から蓄積された様々な意味や価値、それらから導き得る色々な思考が意識に登ること、そして現前している未知の文章から新たな意味や価値や思考を能動的に構成していくことから、非常に意義深い活動であると言える。


上記までは読書の意義の一般論や、当たり前の事を抽象化しつつ詳しく書いてみたが、具体的にはどのような効能があるのだろうか。読書の効能を並べてみよう。


・新しいことを知ることができる

・語彙が増える

・思考力がつく

・想像力がつく

・文章力が上がる

・コミュニケーション力が上がる

・人と話すときの話題が増える

・興味や関心を手軽にいくらでも広げることができる

・社会および人間世界全般の把握が広がることで行動の指針や可能性が増える

・日常では体験しえない遠くの事柄やフィクション上の出来事を疑似的に体験できる

・様々なことに対して色々な見解や意見を持つことができる

・脳機能が全体的に向上する


すぐに思いついたものだけ並べてみたが、他にも色々な効能があり、とにかく人を賢くさせ、知っていることを増やし、人との相互関係を多様にする素養となり、社会生活上であれ精神的にであれ可能性を大きく拡大させ、生きることを有意義にするものであろうと思う。


最後に挙げた脳機能の向上について、実証されている事を以下に書いてみたい。


オックスフォード大学の神経学の教授であるジョン・ステイン氏によると、「読書は大脳のトレーニング」だそうだ。読書中の脳の状態を実際にMRIでスキャンしたところ、本の言葉で表記されている景色、音、味、香りなどを想像しただけで、それらに対応する大脳の各領域が活性化し、新しい神経回路が発生したとのこと。つまり、言語に関する脳の領域だけでなく、想像力によって本の中の五感情報をイメージに構成していく過程で、五感に関する脳の領域も活動して五感に関する神経回路も増えていくのである。



カナダのヨーク大学の心理学者、レイモンド・マー氏によると、読書によってストーリを理解して他人の考えや感情を理解しようと努めた脳において、脳の神経回路の重なりが増えていた、ということがMRIによる分析で‏明らかになった。このことから、読書することで他人の立場にたって考えたり他人に感情移入や共感を行う脳の機能が向上することがわかる。


エモリー大学の研究によると、ボランティアの学生に9夜連続で小説を読ませたところ、左の側頭葉の脳細胞の繋がりが増加していることが顕著にMRIの結果に表れた。興味深いことは、スキャンしたのは読書中ではなく読書後であったことから、左側頭葉の神経回路はたった9夜のことでその時だけでなく後に残るものとして増えたことになる、ということである。


他にも読書の効能を脳科学的に実証した実験というのはたくさんあり、脳の機能を向上させるうえで読書と言うのは非常に良いものであることが示されている。


読書をすることで、言語に関する脳の領域が強度に活動することはもちろんであるが、小説など五感情報に関わる事象が言語化されている表現を読むことにおいては脳の五感の領域が活動し、またストーリーにおいて人の思考や感情や人の状況が語られる表現を読むことで感情や状況や思考を理解する脳の領域が活動し、神経回路が増える。それも、読後もしっかりのこる増え方なのである。とにかく読書をすることで、脳のあちこちで神経細胞が繋がり、シナプスが形成され、飛躍的にシナプスを増やすことができる。たとえば音楽家は音に関するシナプスが普通の人に比べてはるかに多いため、音楽のワンフレーズを聞いただけで色々な感覚や感情が脳内を過り、それに対する論理的思考も発生したりするが、それと同じように、読書をすることで様々な事象に関するシナプスを増やすことで、同じ一つの出来事や言葉に対し、たくさんの思考や感慨やイメージを持つことができるようになり、日常に体験する情報に対しても脳内に駆け巡る印象や解釈が豊かになるだろう。


とにかく読書は、人を豊かにする。せっかくどんな人にとっても安価で手に入る本という媒体の上に、広大な世界が無数に広がっているのだから、人間に生まれたからには、人生を有意義にするために、読書を行わない手はない。幸い、書店や図書館に行けば、無数のジャンルの本が置いてあるので、普段読書をしない人もどれかには興味を持てるだろう。興味をもったタイトルの本、ふと目に入った本からでも、少しでも読んでいけば、興味や関心は広がっていき、新しい言葉、新しい出来事や物事、新しい五感、新しい考えなどを、体験することができ、心は豊かになっていくだろう。

Alchemy and Psycology

Such words as "sublimate" and "solution" are those alchemists of the Medieval ages preferred to use, each of which has double meanings, one of which is physical or chemical sense, the other of which is mental or psychological sense. The word "sublimate" were often used as a term meaning the chemical process of solid's vaporization represented by dry ice after modern age in which science has advanced, but because of the following circumstances that Nietzsche used the word to mean aspects concerning mind and Freud to express his theory of "sublimating" libido, at the present time people again have come to use this word to mean psychology more often than before. Tracing its origin to ages before the Modern age, far earlier alchemists used this word not to mean one of this two senses, but to "mean both matter and mentality simultaneously". Originally alchemy had been both chemistry and mysticism, according to advances of science and diversification of knowledge, in alchemy there appeared two schools one of which pursued understanding of chemical phenomenon the other of which placed importance on contemplation of mysticism, then according to this progress, the meaning and usage of alchemical words such as "sublimate" and "solution" have separated into two directions to physical expression and mental expression.


By the way, what does it mean that alchemists used words concerning chemical experimentation with implication of mentality? It is that on trying chemical experimentation alchemists "projected their mind on the process in which a new matter was made" from two matters because of a chemical reaction. Saying minutely, to Medieval alchemists who had little knowledge about science, the fact that a whole new matter has been made from a reaction of two matter was very mysterious phenomenon, and that acted on their hearts. In addition to this mysterious feeling, considering their ignorance of science, they might have stated this mysterious phenomenon by their mentality rather than theories or knowledge, and in that process their sprits might have effected on their course of explanation, then for that causes they might have had to explain phenomenon with projecting unconsciously their own mental contents on matters. To alchemists not only there occurred phenomenon before their eyes, but their inner heart, realm of unconsciousness, were activated, and in those inspired mental states they projected mental contents including unconscious ones on chemical phenomenon. Then chemical phenomenon become a metaphor implying contents in unconsciousness, which obtains clear concreteness. To say, they found "symbolism" in chemical phenomenon. All substances might have been symbols that inspired their depth of mind. (Incidentally, the origin of the word "inspire" concerns "breathe")


In alchemy there are those mental process. Therefore, we cannot deny its value, saying such absurd superstition is nonsense because it is impossible to make gold, but (in addition to scientific contribution of finding basis which relates modern chemistry) in a material process of trying to make a new matter there occurred a mental progress at the same time, in which mental constituents important to their life were symbolized in chemical phenomenon and then appeared as embodiment, and by those concrete cognition to unconscious contents they deepened cognition to life and heart, so we thinking, it can be said that alchemy has very big spiritual values. We also, dispelling from alchemy the superstitions of seeking gold or precious stones, and seeing the mental aspect rather than material aspect, our unconscious drive and fear may be "sublimed" and be in states of "solution" with our hearts "inspired" by documents alchemists bequeathed.




「sublimate(昇華する、固体が気化する、崇高にする)」や「solution(溶解、解決)」などの言葉は、中世の錬金術師が好んで使った言葉なのですが、それぞれが二重の意味をもっていて、一方は物理的または化学的な意味でありもう一方は心理的または精神的な意味です。「昇華するsublimete」という言葉は、科学が発展した近代以降ではドライアイスの気化に代表される個体が気体になるという化学的プロセスを意味する言葉として使われることの方が多かったのですが、ニーチェが頻繁に精神的なことに関する意味で使ったり、フロイトがリビドーの「昇華」の理論として使ったりしたようなことがあって、現代では再び心理的な意味で用いることがかなり多くなった言葉です。近代以前の起源を辿れば、ずっと昔の錬金術師はどちらかの意味で使っているのではなく、「同時に物質的かつ精神的な意味で」使っていたようです。そしてもともと錬金術というのは最初は化学でありながら神秘主義であったのですが、科学の進歩と知識の多様化とともに、錬金術においてはっきりと科学的な現象理解へ向かっていく錬金術師と神秘主義的な内観を重視する錬金術師とに二つに分流していき、その過程にあわせて、「sublimate」や「solution」などの錬金術的言語の意味や用法も、一方は物質的表現へもう一方は精神的表現へと分かれていったようです。


ところで、錬金術師が精神的な意味合いで化学実験に関する言葉を使っていたということはどういうことか。それは、錬金術師が、化学実験をするにおいて、化学反応によって物質と物質から「新しい物質ができる過程に、自分の心理を投影していた」ということです。詳しく述べてみると、科学的な知識のほとんどなかった中世の錬金術師にとっては、2つの物質の反応から全く新しい第3のものができるというのはとても神秘的な現象であり、錬金術師の心にも強く作用したでしょう。その神秘感に加えて、現象を科学的な知識もたないことも考えると、彼らはその神秘的現象を理論や知識より自分の見方によって述べることになり、その際に自身の精神が説明過程に影響を及ぼしている、そういうわけで彼らは自分の心理的内容を無意識的に物質に投影しながら現象を説明しなければならなかったということになります。 錬金術師においては眼前に化学的な反応が現象しているだけではなく、心の内面、無意識の領域が活性化されている、そしてそういうインスパイアーされた精神状態で化学現象に対する無意識の心理を含めた心理の投影の過程がおこっていた。化学現象は無意識の内容の隠喩になり、その心的内容は鮮明な具体性をもつ。つまり化学現象に「象徴性」を見出しているということです。物質全てが彼らの心の深みをインスパイアーする象徴だったのかもしれません。(ちなみに、インスパイアーinspireという言葉は呼吸に関わる由来をもっています)


練金術においてはそういう心理的過程が起こっているのです。だから、金を生み出すなんていうことは不可能であるからそんな馬鹿げた迷信的なことは無意味だ、と私たちはその価値を安易に否定してしまってよいものではなく、(実際に近代化学に通じるもの基礎となるものを発見した科学的功績に加えて)、新しい物質を生み出そうとする物質的過程の中で心理的過程も同時に起こっていて、術師の生命にとって重要な心的要素が化学現象に象徴されていた、つまり具現物として現象していた、そしてこういう無意識の内容の具現的認識によって彼らは生命・心に対する精神的な認識を深めていた、そう考えると錬金術は大きな精神的価値をもってるのです。私たちも、金や宝石を求めるという馬鹿げた迷信を錬金術から払いのけ、物質的な面より精神的な面をみるのなら、錬金術師の残した文献に心が「inspire」されて無意識の欲動や不安などが「sublime」されたり「solution」な状態になったりするかもしれません。

精神と地球

情感豊かな自然科学者や博学な詩人(たとえばゲーテや宮沢賢治)の心のなかには、一個の地球がある。

たとえば彼が心地よさを感じると、すぐにそれは肌を打つそよ風の感触に喩えられる。そして風がどんな仕組みで吹いているのか、その原理がすぐに彼の心の裡に想起される。

太陽の熱で海が蒸発して大局的に上昇気流が出来、そのあたりでは気圧が下がり、大陸のところでは相対的に気圧が高くなる。水分を含んだ上昇気流ははるか上空へ達すると、気温とともに空気の飽和水蒸気量も下がるので水滴となり、それが集まって雲となる。下からまだまだ上昇気流がくるので、雲を纏った上空の大気は、他のところ、つまり気圧の高いところへ移動する。海抜近くでは逆に、気圧の高いところから低いところへ、風が吹く。地球の大気の対流。彼は風を想起しただけで瞬間的にこういう様を思い描き、雨が降る仕組み、雨や風によって大地が風化して地形が出来ていく仕組みなど、そのほか色々な地球の現象を思い描くかもしれない。


彼は風を想起するだけでなく、リアルに精神の裡に現象させるのであり、しかもその現象の仕組みを地球全体の関連の中で理解しているので、他の色々な自然現象も同時に彼にリアルに現象する。彼の情感が豊かな場合、色々な自然現象が彼の心の中で起こっているうちに、別の感情を、あるいはその感情に関連する記憶を、思い浮かべることもあるだろう。


地殻や火山の激動は怒りの隠喩となり、低気圧や湿気や雨雲は憂鬱な気分を表現する。過去の恋人は、月を映す夜の湖、その深くを独りで泳ぐ魚のように、静かに心の中を泳いでいる。無数の植物を生やした一個の山の光合成のように豊かな深呼吸をしながら、空想は風のように自由に飛びまわって、その風に葉っぱが揺れて森がざわめくかのように、漠然とした歌ができる。あるいは雨が長く降らないで水分が不足して生気を失っていく森のように、その印象の戯れの歌声はだんだん枯れてくるかもしれない。しかし突然、インスピレーションの雷が天を裂いて発光する。轟音とともに激情の嵐がやってきて、その勢いで新しい作品の荒削りな草稿を完成させる。森は多少被害を受けたものの、久しぶりの雨だったので動植物はその恵みによって豊かな活動を開始するかのように、作品を彫啄する。


自分の記憶や感情と色々な自然現象が密接に結びついているので、あらゆる精神活動が自然の生気を帯び、豊かな研究や芸術活動を行うことが出来るのである。彼は科学を行うと同時に精神を芸術化し、職業として科学を行っていたとしても夕方からは創作を行えるであろうし、逆も然り、詩人でありながら自宅での研究も有効に行うことができるだろう。